★人って「思わされているのか」「自分が思っているのか」分からないところが ある。

2020年7月2日木曜日

雑記

t f B! P L



みんなが知らない広告のこと、気づいたかもしれない。。

先日スマホでネット見てたらビックリ。

スマホでネットしてたら下に広告が出るタイプもあると思うのですが、こんな感じで、

paypay100ワニ1

(引用:paypya広告画像)

こんな感じで、スマホのページ下にpaypyayの広告が出ていました。

私は、広告に目を向けないほうなので、視界の端っこにあるその時この広告が、

「100日後に死ぬワニ」の作者の「きくちゆうき氏」のツイッターのアイコンに見えたのです。

paypay100ワニ2

(画像引用元:ツイッター>きくちゆうき トップ画像)

遠めで薄く見たら、

色の配色や位置みたいなのが似てて、背景を白色にしてみたらめっちゃ似てるーー!

paypay100ワニ3

(引用:paypya広告画像)

広告ってこのようにして作られてるのかと、

あれ?!って思わず目をやった。見させる力のある広告というか。

なおかつ、どこかで見たような記憶・既視感、っていうのは、

人になじみやすい性質があると思う。広告にはそのような人間の性質も利用されているのだろう。

 

初対面の人と出会って、なんか知り合いのだれだれに似てるって人とはなんか親近感が勝手に沸いてしまう感じだ。

 

発見した感動!と同時にこんなところに組み込まれていたのかと。

 

 

それって本当にアナタの意見や意思だろうか?>人って「思わされているのか」「自分が思っているのか」分からないところがある。

過去記事

閲覧不要:ツイッターのフォロワー整理した。整理中。

ツイッターで

私を利用するためにフォローしないでください」みたいなことをツイートする人もボチボチいる」って感じのこと書いたんだけど、

このツイート私を利用するためにフォローしないでください」みたいなツイートを実際に私がを見たときに、

同じ日だったかその近日くらいで、

同じようなツイートをしてる人が複数いたのだ。(両者とも鍼灸関係の方。接点あるかは不明。)

複数の人が同時に同じようなことをつぶやいている。

両者ともに鍼灸関係の方だったので、どっちかのツイートを見てどっちかが、私もそう思うなって思ってツイートしたのかもしれない。

 

さらに驚いたのは、その同日あたりに、鍼灸とは全く別の、ネット上のインフルエンサーの人がそのようなツイートをしていたのだ。(上記の鍼灸師2名はこのインフルエンサーはい多分知らない人だと思う。インフルエンサーといえど万人が知ってる感じでなく、ビジネス系の発信をしてる人で、その界隈では名が知れてる感じの人。

 

これっていうのは、

鍼灸師Aさん鍼灸師Bさんも、なにかそういったツイートを見て思考が触発されたのではと。

どっかのインフルエンサーがいったこともさらにどこかの人が言った言葉に触発されてツイートしたのかもしれません。

 

 

自分自身が発信で思った!ってことは実は他人の意見の受け売りだったりしてな。

あなたの意見はどこに行ったであろうか?

 

 

 

あと自分のブログに書いてる内容のオリジナリティ

これも驚いたのだけど、私自身が自分自身・自分発信で思いついて考えたことをブログに書いていたら、

近日に別の人が全く似たようなことを言ってることに気付いた。

あれ?私のブログの行ったことを参考にしたのか??って思ったけど、見てるとは思えない。

よくよく振り返ってみたら、私がその人のツイートを見てそれを忘れて、改めて思い出して、それをテーマにブログを書いていたのだった。

 

 

何て言っていいのか分からないけれども、

 

人ってこのようにして、見たものに「意見や思考してるだけ」で自分ではあまり考えてない時ってあるのでは?って思えてならない。

 

あまりに情報を見過ぎるとただ情報が言ってることに従ったり・批判したり、意見したりしてるだけの脳みそになってしまうのではと。

<<自分の思考の軸が、(ついさっき)他人の言った発言を軸に考えてしまっている状態。>>

 

 

重要点は、

本来自分が考えるべき項目だったのか?っていうことだ。

 

そんな風に思えて、最近情報を削ろうと思って、とりあえずフォロー整理をしたのだった。

 

 

人の意見を聞くあまり・目にするあまりに自分の意見を消してしまっていないか?自分そのものを失ってはいないか?

例えば、海にはゴミがあふれてて、海の環境問題を訴えかけることをツイートする人がたくさんいたとする。

それは素晴らしいことだ。

次に、森林や森にすむ動物についての保全についてのツイートをたくさん目にする。

それもなんて素晴らしいことだろう。

さらに次には、別の社会問題の問題提起、、、、、etcetc

(この手のことに関して何ら見ることが悪いことではないからタチが悪いのだ。)

 

でも、人の時間って有限だから考えること(量)は厳密には限られている。

自分自身が今まで思ってもなかった、海や森のことを考えてる暇はないというか。

 

<<極論、これが無限に続いたら、あなたが本来、考えるべきこと(考えてきたこと)を考える隙間がなくなるということ。>>

 

自分は料理人になるために、料理のことを考えていたのに、ツイートを見ていたらいつのまにか、海や森の自然破壊の問題について考えるようになった。

料理人の自分はいったいどうなる?

 

 

 

 

昔は素晴らしい情報を集めるのが大事であったかもだけど、

現代は、素晴らしい情報すらも捨てて、自分が本当に興味のあるものを選ばないといけなくなったんだと思う。

 

 

 

人って「思わされているのか」「自分が思っているのか」分からないところがある。

 

 

「本来のあなた」はいったいどこにったのであろうか。

今頃何を考えているだろう。

 

 

もしかしたら、「本来のあなたは」今よりも成功してるかもしれないっていうところだ。

 

 

情報は見過ぎないほうがいいみたいのあるけど、こういうことかと最近思う。

 

 

 

 






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