「東洋医学的なもののはじまり」と「陰陽五行思想」が日本に渡ってきた時期

2014年2月22日土曜日

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「古事記と日本書紀(図解雑学)/明治大学院大学教授 武光 誠=著」という本を読んでいたら、
わずかであるが、
東洋医学のはじまりのような内容と
陰陽五行思想が日本に広まった時期などの事が記載されていました。
「古事記」や「日本書紀」にもこういった内容の事が書かれてたいたのだと(歴史などよく分からないですが。。)
歴史の深さや、東洋思想・東洋哲学?(なんといったらいいのでしょうか。(汗))が
日本の文化に大昔から深く根付いており、
その先代から受け継がれているものが、今の東洋医学などなのだと思いました。
以下は、
「古事記と日本書紀(図解雑学)/明治大学院大学教授 武光 誠=著」に
記載されたいたことの私なりのまとめです。
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「古事記」「日本書紀」が描く古代。
◆古代における病気・治療に対する考え<医療>
古代日本において、病気やケガは、神の怒りや穢(けが)れによってもたらされるものと考えられていた。
そのため、病気やケガの治療法は、神の怒りを鎮(しず)める祈りや、穢(けが)れを清める禊(みそぎ)といった儀式にたよることになる。そして、儀式を行うのはシャーマン的な存在、すなわち「巫医(ふい)」であった。
巫医も呪いや祈りだけで病気を治していたわけではなさそうで、当時行われていた民間療法的なものも使っていたと推測される。
<東洋医学的なもの>が正式にもたらされるのは、19代允恭(いんぎょう)天皇の頃から。
414年、新羅(しらぎ)から医薬に詳しい使者、金武(きんむ)が来日して、允恭天皇の持病を治す。
459年、百済(くだら)に医師の派遣を要請し、徳来(とくらい)が来日し、難波に住み、子孫代々「難波(なにわ)の薬師(くすし)」と称される。
593年、聖徳太子も大陸文化とともに最新医術を導入し、難波に建てた四天王寺の境内に施薬院・寮病院を設け、広く施寮にあたらせている。
608年、聖徳太子、小野妹子を隋へ派遣。恵日、福因なども留学させ、医術を学ばせる。(623年帰国)
◆陰陽五行思想
陰陽五行思想は、中国の春秋戦国時代の頃、「陰陽思想」と「五行思想」が結びついて生まれた世界観である。もとは易(えき)(売らないの知恵の体系化)であったが、世界を体系的に把握するための思想・科学・哲学へと発展した。
日本に陰陽五行思想が伝わったのは、仏教や儒教と同じく5~6世紀頃とされる。当時の日本にとって、陰陽五行思想は、先進国である中国からもたらされた最先端の知の体系であった。すぐには理解されなかったが、やがて朝廷での祭祀や政治、軍事などに幅広く活用されるようになった。
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仏教や儒教と同じく5~6世紀頃には陰陽五行思想が日本に伝わってきていたようです。

 






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